Sun&Moonのリンク

韓国遊学記(3)

話が出たついでに、「自立」についてもう少し語ろうと思う。

実は「自立」ほど、難しいものはない。と同時に、誤解されやすいものはない。

慧元の師は弟子を自立させるのが上手ではなかった。彼はとても力のある人で、弟子に対して彼への服従を要求したため、彼に依存してしまう弟子が多かった。彼はそんな弟子を最後に非常に冷たく切ってしまったので、結局多くの弟子の恨みを買った。私はそれが弟子の自立を願う彼の愛だったと思う。けれども、慧元ですら、彼に切られてから後、一度も彼と会うことはなかった。本当に対等の関係になれば、いつでも好きなときに会えるはずではないか。そんなふうに関係が断たれてしまうのは、やはり好ましいことではない。

慧元と私は今でも時々連絡を取り合っている。もっとも、ごく最近はどこに行ってしまったのか、所在不明であるが。

それから、ひとつだけはっきりさせておかなければならないことがある。

ここで「自立」と言っているのは、「自分の感性を信頼し、自分の判断で動く」という意味においてであって、決して、「人間の存在そのもの」が「自立」していると言っているわけではない。

私は慧元の導きによって、「自立」を果たして日本に帰国したが、その後に待っていた月○(本当の伴侶)との出逢いは、私の想像を絶するものだった。その事態の持つ意味は、慧元すらも理解することができなかった。彼もまだ、経験したことがないことだったから。

人は、「自立」を果たしたとき、自分の全存在を支えてくれている本当の伴侶に出会ってしまうのである。つまり、自分がその人の存在に完璧に依存していることを思い知らされるのだ。

(これが、『トマスによる福音書』75「…花嫁の部屋に入るであろう者は単独者だけである。」の意味である。)

そのとき、その存在を受け入れ、二人が調和することができれば、人は完全になる。自分と相手が一体であることを経験し、世界が不可分であることを自覚し、すべての人を愛せるようになる。これが本当の自立である。つまり、自立=全依存なのだ。それは限りない幸せである!

けれども、これまで「自立」こそが正しいと信じてきた者にとって、突然訪れる「全依存」の関係が受け入れ難いのは当然であろう。この相手がいなければ自分は存在できないということを認めるのはとんでもなく恐ろしいことである。なぜなら、その人に裏切られたら、自分はおしまいだから。だからここで絶対的に必要なのは、お互いに対する信頼なのである。

けれども、悲しいことに、信頼こそがこの世で最も得難いものなのだ。特に、子供の頃、両親の仲が悪く、十分に愛されずに育った人々にとって、これほど難しいことはない。彼らは、親に信頼されたことがない。だから自分を信頼することができない。よって、他人を信頼することもできない。徹底的に人を疑い、ガードを固めることによって自分が傷つくのを守ってきた。そんな人々にとって、すべてのガードをはずすことを要求する本当の伴侶が悪魔に見えるのも無理はない。

彼らはこう言う。「私は自立している。あなたなんか、関係ない。」と。

けれども、それは本当の自立ではなく、ただの孤立である。孤独である。それこそが最大の不幸だ!

何よりも、そのように言い放つことが、あなたにとって一番大切な人をどれほど苦しめるかわかってほしい。あなたがそのように言い続ければ、彼は発狂するしかないのだから。

さて、韓国の話に戻ろう。

留学当初は留学生会館のようなところに住んでいたが、それでは韓国に来た意味がないと、私は早速下宿を探すことにした。学生に、下宿の探し方を訊いてみると、「簡単だよ。不動産屋に行って、『下宿を探している』と言えばいい。いくつか実際に見て、気に入ったら契約すればいいのさ。」

あまりにも当たり前のアドバイスに少々がっかりしつつ、大学を出て一番最初に見つけた「不動産」という看板の掛かった店に入った。

「下宿を探しているのですが。」

「とても良いところがあるよ。いわゆる下宿屋ではなく、たまたま部屋が空いたから下宿をやりたいという普通の家だ。」
おじさんに連れられて行った家は、おばあさんと娘の二人暮らしで、部屋は狭いが小綺麗なところだった。おばあさんの優しい笑顔が気に入って、私はすぐにそこに決めた。

後で知ったのだが、おばあさんは全羅北道郡山の出身で、料理が抜群にうまかった。だから私は毎日の夕食がとても楽しみだった。(いつも台所で見学していたのだが、私には到底あの味は真似できない。)

おばあさんは、私のことを娘のようにかわいがってくれ、風邪をひくと、お粥を作ってくれたり、婚約者のJや友人が遊びに来ると、ご飯を出してもてなしてくれたりもした。友人は料理のあまりのおいしさに驚いて、
「どうやってこんないい下宿を見つけたの?」
と訊いた。どうやってって、ただ、一番最初に入った不動産屋で、一番最初に紹介してくれた下宿なんだけど…

私はその下宿で1年程暮らした。帰国するときおばあさんに挨拶に行って、手紙を書くから、と言ったら、「私は文字が読めないから、手紙は書かなくていい。」と言われた。だから、一度も手紙を出さなかった。今でも元気でいるだろうか。彼女のことはいつまでも忘れない。

慧元が私にしてくれた話のうち、もう一つの大きなテーマは「執着を手放す」ということだった。

人は何かを握りしめることによってそれに縛られ、不自由になる。それを彼はコップの例えでわかりやすく説明してくれた。それについては「片想いのススメ」に詳しく書いたので、それに譲る。

けれども、「執着」についての考え方も、月○に出会ってから、大きく変わった。自分を信頼するという意味での「自立」を果たし、すべての執着を手放した後に出会ってしまう「本当の伴侶」に感じる引力は、決して「執着」ではないのだ。それまでも「執着」であると思い込んで、手放そうとしたらそれこそ地獄である。自分の存在そのものを否定することになってしまうのだから。

だからこの引力は、素直に受け入れ、それが命じるままに行動しなければならない。それには大きな勇気が必要である。なぜなら、その行動は自分という領域を越えて、他人の領域までも侵すものだからである。自分の感じるままに、他人を動かす勇気がなければならない。(続く)

前へ  次へ  戻る