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自分を信頼することの難しさ

 激動するこれからの世の中を乗り切れるかどうかは「自分を信頼して本音で生きられるか」にかかっている。けれども「自分を信頼せよ」と言われても、何をどう信頼すればいいのか具体的なイメージが湧きにくいかもしれない。

 

 それは例えて言えばつぎのようなことだ。

 何かの病気に罹って薬を飲んでいるとする。もちろん病気を治すつもりで飲んでいるのだが、そのときもしも

「あなたは薬を飲む必要はありません。あなた自身の自然治癒力で治ります。だからそれを信頼してください。」と言われたらどうだろうか?

 

 その病気が恐ろしいものであればあるほど、その言葉を受け入れるのは困難であろう。すぐに信じて薬を断てる人はまずいまい。

 実際のところ、薬は「自然治癒力が病を治癒する」のを助けるだけで、薬自体には病を治す力はない。それは医聖ヒポクラテスの時代から縷々語り継がれてきたことである。

「病気を癒すものは自然である」

「自然は病気の医者である」と。

 

 しかし世の中には「薬が病気を治す」と信じ込んでいて、薬を断てば病が治らないばかりか、死んでしまうかもしれないと心配する人は大変多い。

(このような誤った常識がまかり通るようになったのは、おそらく製薬会社の利益追求のせいだろう。彼らにとっては病気が自然に治ってしまっては困るのだ。だから金と力にものを言わせて人々に恐怖を与え患者が薬に依存せざるを得ないように仕向ける。)

 

 私自身の体験によれば、自然治癒力は信頼すればするほど力を発揮する。

 

 それについて最初に私に教えてくれたのは皮膚病であった。子供の頃、手によく出る湿疹がとても苦痛だった。何をしてもなかなか良くならなかったのだが、あるとき劇的に効く薬に出会った。副腎皮質ホルモン剤である。塗るとすぐに綺麗になるのが嬉しかった。けれども次第に薬が手放せなくなった。やめるともっとひどくなるからである。そのうち、薬はただ表面を綺麗にするだけで病の元は皮膚の裏に相変わらず潜んでいて、本当に治癒したわけではないことがわかってきた。

 皮膚病は掻いてはいけない、とよく言われるが、あまりの痒さに掻きむしって血だらけになった後に症状が却って好転することも多かった。

そのとき、ひょっとしたら皮膚病とは、体内の毒素を排出するために必要だから起きる症状なのでは?と感じた。

 その後、西洋医学から離れ、漢方薬などを試しても結果はあまりはかばかしくなかったのだが、あることをきっかけに劇的に改善した。それはたまたまテレビに出ていたヨガの先生が

「ヨガは身体全体のバランスを正します。だからヨガをすれば病気も良くなりますが、病気を治そう、治そうと思ってやっても決して良くなりません。何も考えずに淡々とやることが大切です。」

とおっしゃるのを見てからだ。

 

 病は西洋医学のように局所的に捉えるのではなく、身体全体から捉えるべきだと考え始めていたころなので、ヨガの考え方も素直に受け入れられたのだが、特に「治そうと思ってやると治らない。」という部分がなぜかとても心に響いた。また、完全なリラックスをするために、一度思い切り力を入れてみるという手法にも興味を持った。(あえて望む方向の反対の極限まで行けば却って望むところに行けるというわけだ)

 それで早速ヨガのポーズの中から自分に合いそうなものを三つ選んで、毎日10分ほどやり始めた。最初のうちはどうしても早く治したいという気持ちを抑えられなかったが、それに気づくたびに考えないようにしていたら、1ヶ月を過ぎるころから忘れてしまうようになり、いつのまにか淡々とヨガだけをするようになった。

 3ヶ月くらい経っただろうか、あるとき病気がすっかり治っていることに気づいた。それはとても大きな驚きだった。ヨガの先生がおっしゃったことは本当だった。

 その後もとたまに皮膚病が顔を出すことはあったが、体調のバロメーターだと思うようにして身体全体を健康に保つように心がけたら、(ストレスを溜めない、よく寝る、運動する、添加物だらけの食物を食べない、など)症状は自然におさまるようになり、症状の波も次第に穏やかになって、ついに全く出なくなった。

 

 さきほど、「薬は自然治癒力を助ける」と書いたが、実際には自然治癒を妨げる薬の方が断然多い。たとえば解熱剤。発熱は身体への異物の侵入を防いだり撃退するための自然治癒力の働きの一つなのに、それを抑えれば異物の侵入を許してしまいかねない。また、バイ菌を殺そうと傷口に消毒剤を塗れば、傷口を修復するために必要な常在菌まで殺してしまう、等々。これらの薬は表面的な症状の悪化は防ぐかもしれないが、却って本当の治癒を遅らせる原因となる。

 だからできるだけ熱は出るに任せたほうがいいし、傷口は汚れを水で洗い流して乾かしたら放っておいた方がいい。要するに、何もしないほうがいい、というわけだ。

 病の症状はそれ自体が治癒の過程である、と「風邪の効用」という本の中で野口晴哉も述べている。そのことを本当に信頼できれば病は改善する。

 

 意図的に何かをすることで起きる症状をコントロールしようとしないで、起きるに任せること。それが自分の自然治癒力に対する信頼である。

 

 厳密に言えばヨガのような手法も「意図的に何かをしている」わけだから、自然治癒力を完璧に信頼しているとは言えない。しかし、薬に頼り切って自分の自然治癒力を全く信じられなくなった人が、いきなり何もかも全てやめて自然治癒力だけを信じることは不可能に近い。薬を突然やめた反動に苦しむこともある。だから自分の自然治癒力を徐々に回復し、完璧な信頼に至るための方便としては、ヨガをはじめ様々な手法があり得ると思う。

(それでもどうしても薬がやめられない人は、薬にとことん嫌気が差すまでその弊害を体験する必要があるのかもしれない。あえて反対方向の極限まで行くというわけだ。)

 

 私自身が身体に不調をきたしたときにいつも行うのは、「症状を受け入れて深く感じる」ことである。

 これはなかなか勇気のいることで、特に痛かったり辛かったりするときにそれを感じることは大変な恐怖を覚えるものだ。それでもめげずに感じ切れば必ず症状は改善する。

 

 頭痛がするときはその痛みをとことん感じ、熱が出て不快なときはその不快さをとことん感じる。すると不思議なことに、最初はその症状が増幅されてますます辛いのだが、極限に達するとポンと心が開く感じがして症状が自然に収まってしまう。ちょっと熱っぽくて風邪の引き始めかなと思っても、数時間熱を感じつくせばすっかりよくなる。熱湯に触れて火傷をしても、水でしばらく冷やした後にただ痛みを感じていると自然に治ってしまう。

 治るまでの時間が最近どんどん短くなってきている気がする。自然治癒力に対する信頼が深まることで、ますますその力が増しているのである。

 

 病気によってはその原因が心の中にある場合もある。病による不快感を深く感じていくと、その裏に深い悲しみとか、強烈な怒りが隠れていることもあるのだ。そのような場合は、それらの感情を抑え込まずに適切に表現する必要がある。相手に伝えるべき感情があるならまっすぐ伝えなければならない。それらの感情が適切に解放されれば病は治る。それが病の原因だったからだ。

 

 そうやって自分の中から湧き起こってくる全てのことを感じて受け入れること、それが自分を信頼するということである。そして自分が本当にしたいことをすること、それが本音で生きることである。

 

 しかしまたここで問題が生じる。

 自分では本当にしたいことをしているつもりでも、実はそれは本当に「したい」のではなく「しなければならないと信じ込んでいる」ことである場合が多いのだ。

 

 人は子供の時から「したい」ことよりも「しなければならない」ことを優先する方が正しいと教育されて育ってきた。あまりにもそれが当たり前になってしまったので自分が「しなければならない」ことを「したい」のだと勘違いしてしまうようになった。この「染脳」を解く(洗脳する)のは大変難しい。(私は間違った教育に染まった脳をまっさらに洗うのが正しいと思っている)

 

 しかし、自分が「したい」と思っていることが本当に心の底から「したい」ことなのか、頭で「しなければならない」と信じ込んでいることなのかを見分ける方法はある。

 自分が「したい」ことを一生懸命やってみて、たとえそれがなかなかうまくいかなくても、なぜかやればやるほど自分の中から力やエネルギーが湧いてきてますます健康になるなら、それは本当に「したい」ことである。けれども一生懸命やればやるほど疲労困憊してストレスが溜まり、病気になってしまったりするなら、それは「しなければならない」と信じ込んでいるが本当はしたくないことである。

 

 やっていてますます健康になるならそれは天が推奨することで、やればやるほど身体を壊すならそれは天がやるなと言っていると、素直に考えればいい。

 

 けれども困ったことに、後者のような場合に歯を食いしばって頑張るのが正しい、それこそが自己修練だ、などとと考える人は非常に多い。(特に男性はその傾向が強い。)

 

(余談だが、私は馬に乗ると不思議と全くお腹が空かない。馬上での運動と馬の手入れも含めたらかなりのエネルギーを消費するはずだが。つまり、私にとっての乗馬は力が湧く行為で私が本当にしたいことなのだ。おそらく、自分より大きくて力も強い動物を信頼する訓練が私にとって不可欠なのだろう。)

 

 身体はとても正直である。身体は心(感性、heart)を反映し、自分が本当は何をしたいのか一番よく知っている。むしろ自分を騙すのは頭(理性、mind)だ。理性が肉体よりも賢いと考えるのは大きな間違いだ。理性は往々にして打算的で自己保身に走りやすい。自分が本当にしたいことは冒険的で危険に見える場合が多いので、理性はそれにブレーキをかけようと自分を説得しにかかる。

 そんなことは不可能だ!

 そんなことをしたら変な人に思われる!

 社会的な地位を失うかもいれないぞ! 等々。

けれどもそのように自分の本当の本音を押さえつけると、間違いなく身体に不調をきたす。身体はとても正直だから。

 

(もちろん理性は必要だ。理性の本当の役割とは、感性を信頼して決断することである。

 理性が決断しなければ決して物事は動かせない。)

 

 私もときには何が自分の本音かわからなくなることがある。そんなときはいつも身体に決めさせることにしている。例えば分かれ道ならどちらにいくかは足に決めさせる、というように。もちろん、どちらに決まっても受け入れる覚悟を決めた上で。

 

 自分を信頼するとは、ある意味、自分を生かしている大きな力、エネルギーそのものを信頼するということである。我々は何者かの大きな力によって生かされている。もしもそれを神と呼ぶなら、神を信頼することと同義なのだ。

2022年2月11日ブログ記事より転載

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