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ゴミ

自然界にはもともとゴミなどというものはなかった。すべてのものは必要なときに、必要なだけ存在して、役目を終えると自然に無に還った。本来、ものとはそうあるべきなのだ。

自然は、自分が作り出したものに未練を持たない。どんなに美しいものも、時間の経過と共に消え去ってゆく。満開の桜も、まぶしい新緑も、夕映えの空にたなびく極彩色の雲も… それはどんなに才能のある画家が描いた絵よりもはるかに美しいにもかかわらず、自然は惜しげもなく毎瞬間それを破壊し、また新たな美を生み出している。だから自然が生み出す情景は、決して人を飽きさせることがない。

人はいろいろなモノを作り出したが、それらは自然の産物とは違って役目を終えてもなかなか消え去ることがない。ちまたにモノは溢れ、要らなくなったモノは醜い姿をさらしたまま、大量のゴミとなって、人はいつもその処理に困っている。でも、溢れるモノを収納する場所を作って整理したり、画期的なゴミ処理の方法を考案することで問題が解決するとは思えない。それでは、人は役目を終えても無に還らないようなモノを作り続けることを決してやめようとしないだろうから。むしろ、ゴミが大量に溢れて困り果てることによって、自分たちが作りだしたモノの不完全さを思い知れば、人は不完全なモノを作り出すことをやめるだろう。そしてこの世からゴミというものが完全になくなれば、人は今よりもはるかに幸せになれるのではないか。

人が作ったものは、どうしてゴミになるのだろうか。そもそも人は、自分が作り出したものを壊すことを好まない。むしろ、それがができるだけ長くこの世に存在することを望むものだ。おそらく、それが自分がこの世に生きた証(あかし)となると信じているからであろう。けれども、人が作った創造物の最大の欠点は、壊れないことにある。

自分の存在の証を、自分が作り出したものに求めようとする限り、ゴミは際限なく増え続けるしかない。学者が論文や著書によって自分の存在価値を確認しようとすれば、たちまち大量の書類と書物に埋もれる羽目になる。

でも本当は、自分の存在の証を求める必要も、存在価値を確認する必要もないのだ。なぜなら私は永遠に存在しているのだから。その「永遠の私」に気づけば、自分が作り出したものに執着しなくなる。そのとき人は完全にゴミから解放される。そして、自分の存在の証を残すためではなく、ただ一瞬一瞬を味わい、楽しみながら生きることができるようになる。それが本当に生きるということではないのか。

そういう意味では、web site上のHPはゴミにならなくていいと思う。必要がなくなれば、瞬時に消し去ることができるのだから。私も、このページがその役目を終えたときには、これを消し去ることをためらうまい。

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