Date: Fri, 24 Aug 2001 08:19:48 +0900
To: J
Subject: 答えは入り口にあった!

 変な夢を見ました。定期試験を始めたのですか、いつも学生に書かせる出席表を持ってくるのを忘れてしまったので、学生に試験をやらせたまま、取りに行きました。
 ところが、講師室が見当たりません。大学側が校舎を改造したときになくしてしまったのです。さて、どこに行けばいいんだろう?誰に聞いても、知らないと言うばかり。甚だしくは事務のお偉方に聞いても全然わかりません。試験時間は刻々と終わりに近づくのに、どうしたらいいんでしょう?最後に入り口の守衛室に行って聞いてみたら、何かとても遠いところにあるかもしれない、などと言われました。えー、そんなところまで行くの?困ったなあ・・・と思いつつ、ふとその隣のドアを開けたら、そこに女性がいて、机の上にちゃんと置いてありました。なあんだ、ここにあったのか!
 そうだよね。こんなに大事なもの、そんな遠いところにしまい込むはずないよね・・・でもこんな夢を見るなんて、私もやっぱり先生という職業が染み付いているんですね。
 
 言語学の時間に「反対語は同義語である」という話をしたかしら。ドアをあけると、逆に、そのドアにふさがれてあいていた窓がしまってしまうバスのおもちゃを見せながら。視野を狭くすれば(ドアしか見なければ、あるいは窓しか見なければ)「あく」と「しまる」は反対のことなんだけど、視野を広げて全体を見れば、そのふたつは同じ動きを指していることがわかる。だから正反対のことは、実は全く同じことなんだ、という話。
 今、見えている視野を意外な方向に広げれば、反対語は同義語であることが突然わかります。いや、反対のものが、同義であることを受け入れることができれば、視野は思いがけないやり方で突然広がる、と言ったほうが正しいかな。
  つまり、反対の立場の者が真にわかり合うために必要なのは、相手の意見を入れて折衷することではなくて、反対の立場を貫き通してその極で出会うことだ、というわけです。

 「自立」と「依存」も同じことのような気がします。私は、完全な自立とは、完全に依存することと等しい、と思うんです。つまり、完全に依存することを恐れていたら、自立することなど決してできない、ということです。
 私はひとりでがんばっている逞しい女に見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。確かに、物理的には彼が傍にいないから、ひとりでいるように見えるかもしれませんが。心の中はいつも彼で埋め尽くされています。と言っても、頭で考えているのではありません。心で感じているのです。心の中で私はいつも彼にすがりついています。彼のエネルギーを感じています。私は彼のエネルギーの支えがなければ、何一つできません。私の全存在は、完全に彼の存在に支えられています。完全に依存しています。私にはそれがはっきりわかります。だからこそ、今私は、彼が物理的にそばにいなくても迷わず堂々と自信を持って歩いて行くことができるんです。

 かつて私は、彼からのエネルギーを断たれたことがありました!(断たれたのか?自分で拒否したのか?)そのときの私は本当に廃人そのものでした。私は彼なしには、一歩も歩けない人間なんです!でもそれはいけないことでしょうか?
 いけないはずはありません。それどころか、それは当然なことです。だって、すべてのものはつながっているのだから。すべてのものは一体なのだから。よく仏教などでそんなことを言うではありませんか。

 でも、そのことを頭で理解するのと、体で体験してわかるのとは大違いです! よく「人には親切にしなければいけません。なぜなら他人はあなたの分身だからです。」などと説教している人がいますが、そんな人は大抵頭で理解しているだけで、本当は何もわかっていない人たちです。とことんエゴイスティクになって、とことん他人に迷惑をかけて、自分が完全に他人に依存している悔しさや悲しみをいやというほど感じたことのない人は、他人が自分の分身であることに本当に気付くことはできません。自分と他人が一体であることを本当の意味で理解することはできないのです。

 少し前に、こんな夢を見ました。いよいよ最終バトルが始まる、という夢です。私は討ち死にする覚悟で、背水の陣を敷いて、戦いに臨みました。ところが・・・なんと、その戦いは始まるや否や終わってしまったのです。もちろん、我が軍の勝利で。(もっとも、私の「勝ち」は「すべての人の幸せ」ですから、相手にとっても、「負け」などではありませんが。)私がびっくりしていると、ある人が私にこう言いました。「この戦いは、始めさえすれば勝つことになっていたんだよ。」と。
 私はそのとき、何か勘違いをしていたことに気付きました。私は、月○さんと会うことができても、その後が本当の試練なのではないか、と思っていたのです。なぜならふたりは物理的に一緒に暮らしたことがなかったからです。正反対のふたりがいきなり一緒に生活するのはやはり大変なことだろう、と。
 でもそれはどうも完全な思い違いのようです。ふたりは、一緒に暮らしさえすればすべてはうまくいくはずなのです。すべてのことは、ただ始めさえすればうまくいくようになっているのです。
 
 問題の解決は難しいことではありません。それは例えて言えば、つるんとむけるようかんの皮のようなものです。中にすでにようかんは存在します。完全な形で。ただようじで皮を突きさえすればいいのです。
 別のたとえで言えば、ジグソーパズルをあわせるようなものです。絵を描く必要はありません。絵はすでに完成しています。でも、それぞれのピースが自分の居場所にいないと、どんな絵ができるのか全くわかりません。また、それぞれのピースは単独では、自分に描かれている絵の存在価値がわかりません。それはただ無意味で、いらないもの、いけないもののように見えるだけです。
 だからここで必要なことは自分のピースの絵を一生懸命描いたり直したりすることではなく、ただ自分の居場所に帰ることなのだけです。

 今、すべての人が、自分の本当の居場所はどこなのかに気付き始めています。みんなが自分の居場所に帰るその瞬間、パズルの絵はいきなり完成して、そしてすべての人が気付くことでしょう。自分はあるがままで完全なのだというとに。そのとき、その絵は命を吹き込まれて素晴らしいドラマを創造し始めることでしょう。

 私は無能な人間になりたいです。ただ毎日、彼を見つめ、彼の美しさを賛美しながら泣きじゃくることしかできない、そんな人間になりたいです。なぜなら、それが私にとって一番幸せな瞬間だからです。私がしたいことはそれしかありません。でもそれはいけないことでしょうか。
 私が無能になることは、私が全能になることです。私が何もしなくても、私の願いがこの地に実現することです。すべての人が、自分の居場所で、思う存分自分のしたいことを楽しみながら、調和して暮らす世の中が生まれることです。
 そうではありませんか。

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