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韓国遊学記(7)

慧元は時折、不意打ちのように私たちに変わった質問をした。言ってみれば禅問答のようなものである。

私たちが自分の泉を掘り当てることができないでいるのは、努力が足りないというよりは、泉の存在に気づかないことによる。本当に大切なことは、何かに気づいて「はっ」とする瞬間、霧が晴れたようにわかるものなのだ。だから、私たちに必要なのは、「努力」ではなく、「気づき」である。そのためには、常に敏感でなければならない。

あるとき、彼はお皿を持ってきて、「これは何?」と訊いた。

あまりにも当たり前の質問である。けれども、
「お皿。」
と答えると彼は変な顔をしている。それを頭に載せてみるとか(帽子?)、無言であるとか(これはこれだよ!)すれば、彼はにやにやと笑う。とにかく、皿という物体そのものとそれが連想させる「皿」という言葉が別物であることに気づかせるために、彼はそんなことを訊くのである。

けれども、そんな答えを禅問答の本で勉強して、それを「マニュアル通りに」慧元に言ってみたところで、彼はちっとも喜ばない。その場で自分自身が気づかなければ全く意味がないのだ。本当の答えは予め準備しておくことができないものである。

あるとき、慧元が何かの本を持ってくるように言った。誰かがそれを本棚から持ってくると、慧元はまた、
「これをチェジャリに置いて来て。」
と言う。
(チェジャリとは、韓国語で『元の場所』、『本来の場所』という意味)

私がその本を本棚の元の位置に戻そうした瞬間、いきなり慧元が訊いた。
「そこが本当にチェジャリか?」
「!」

のちに、みんなでパーティの片づけをしているとき、慧元が私に、他のところから持ってきた椅子を指しながら、
「この椅子をチェジャリに置いて来て。」
と言ったので、私が
「ここがチェジャリなんだけどな。」
と言うと、彼は苦笑しながら、
「それはそうだが、今はそのことを言っているんじゃない!」

また、あるときは、一緒に楽しく話をしている最中に慧元が突然黙り込んでしまった。みんな不思議そうに慧元を見る。しばらく沈黙が続いたのち、彼が突然大声で「わっ」と叫んだ。そこにいた人たちはびっくりして、「ぎゃっ」とひっくり返ったが、私は全く驚かなかった。慧元はその様子を見て、満足そうだった。

慧元がこんなことをしたのは、私たちが「今」を生きるように誘導するためだった。意識が完全に「今」にある状態が「気づいている」「目覚めている」状態なのだ。過去や未来のことにとらわれていると、意識は眠ってしまう。それでは今を意識できないし、直感に気づくこともできないのだ。

私はいつも注視を続けていた。たいていの雑念は、「見れば」消えるようになり、思考に振り回されることがなくなったが、ただ一つ、自分と人を比べようとする思いだけは、消すのが大変難しかった。

私は中学受験でいわゆる進学校に入り、そのまま高校に進んだ。素直で優秀な生徒が多く、とてもいい学校だったのだが、そういうところにいると、どうしても「エリート意識」のようなものを持ってしまう。つまり、他人より優れている、ということが自分の存在価値だと思うようになってしまうのである。

「優越感」を価値と思い込んでしまうことほどつまらないことはない。それははじめは確かに一種の快感であるが、次第にその快感を守ることに汲々とするようになる。他人に負けたら、自分の存在価値がなくなってしまうのだから。

私も、いつの頃からか、「勉強ができる」とか、「他人より頭がいい」ということにしか、自分の存在価値を見いだせなくなってしまっていた。だから、「他人に負けた」と思うことは何よりも辛いことであった。

慧元の話を聞いているときも、一緒にいる他の人よりも良く理解したい、とか、優れていたい、という気持ちがどうしても頭をもたげてくるのである。その度に私は不快だった。それで、しっかり注視して、その考えを消し去ろうとした。けれども、それはなかなか消えなかった。

あるとき、またその「優越したい気持ちが」むくむくと起きてきた。私は意を決して、その思いをしっかりと注視し、決して逃さないようにした。そして、心の奥の奥までそれを追いつめた。けれども、それは消えなかった。消えないどころか、私は、心の奥に深い傷を負ってしまった。自分の心の奥がぱっくりと口を開けて、醜い自分が晒された状態になってしまったのである。

私はとても辛かった。どうしていいかわからなかった。それが私が韓国で「注視」を始めてから最大の危機だった。

そのとき、ちょうど慧元がある日本語で書かれた雑誌を持ってきた。彼は日本語が読めなかったから、その内容を知っていたのかどうか、わからない。とにかく、それは五井昌久という人が書いた「全託について」という文章であった。

「全託」というのは、文字通り「全て託すこと」である。自分でどうこうしようと思わずに、全て任せてしまうことである。私はそれを読んで、自分の大きな間違いに気づいた。

「注視」というのは、「ただ、何も考えずに見る」ことなのに、私は「優越したい」という思いを「悪いもの」、「消し去らなければならないもの」と考えながら見ていたのである。つまり善悪の判断をしながら見ていたということだ。だから思考を本当に捉える(見る)ことができなかったのだ。

それから私は自分の思考を淡々と見ることを心がけた。一般的にいって、良いことであろうが、悪いことであろうが、とにかく何も善悪の判断をせずに、ただ「ああ、今、こんなことを考えているな。」と見るのである。そうしているうちに、あれほど私を悩ませていた「優越したい」という思いも淡々と見られるようになり、そのうちにいつの間にか消えてしまった。

今でも、世の中では自分と他人とを比べる風潮が根強い。比べて少しでもマシなら安心している。少しでも優れていれば、存在価値があると思えるから。でも、それを存在価値と思い始めたら、人生は間違いなくつまらないものになり、自分の本当の存在価値に気づくことがとても難しくなる。それは大変不幸なことだ。世の中のエリートといわれる人々の多くは、この不幸に陥っている。そこに一度陥ると抜け出すのは非常に難しい。それでも、多くの人がまだエリートになりたがる。本当に不幸なことだ。

本当は、人は、ただ存在しているだけで、価値があるのに。ただ、存在しているだけで、自分が最も愛する人を幸せにすることができるのに。

あるとき、慧元が突然私に言った。
「あなたは悟ったんじゃないの?」
「そうですか?」
「悟ったと言われても、何も嬉しくないだろ?」
「別に。」
「それが悟った証拠だよ。」

そう言われても、私は何がどう変わったのか、よくわからなかったが、あるとき、夜、ソウルの町を歩いていて、急に気がついた。

  時が止まった・・・

以前、日本にいたとき、言語の時制について研究していて、「今とは何か」ということについて真剣に考えたことがあった。そのときの感覚は、時は明らかに過去から未来へと流れていて、「今」というものは、一瞬にして過去になってしまうつかみ所のないものだった。ところが、そのとき私は、自分が「現在」に止まっていることに気づいたのだ。私は「永遠の今」にいた。

私は「今」をつかもうとしていたから、「今」をつかむことができなかったのだ。つかもうとさえしなければ、「今」はいつもここにある。
(続く)

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