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「そろそろ」

最近、新聞に次のような記事があるのを見つけた。

 イスラエル人の母親が逆子に困って訪れた時、野口はヘブライ語は話せないので仕方なく日本語で胎児に、「オイ逆さまだぞ。頭は下があたりまえなんだぞ。」と言ったら、胎児は正常に戻ったという。(中略)
 メキシコに長く住むバイオリンの黒沼ユリ子さんは、「ケンカの時だけは日本語」という。「力のある言葉」、言葉に気魄(きはく)がこもるということがあるが、語る人の存在の深部において「身についた」言葉にしか気魄はこもらない。胎児はこの気魄に感応するのだと思う。野口は日本語で言ったから通じたのである。コミュニケーションには言語的(バーバル)と非言語的(ノンバーバル)があるが、言語に随伴する「下言語的」(サブバーバル)交流という領野が存在すると思う。言語が意識の交通なら、下言語は潜在意識の交通である。野口晴哉は、潜在意識の交通の達人であった。
『私の野口晴哉(はるちか)2』 社会学者 見田 宗介 (朝日新聞夕刊 2004.4.9)

このように、お互いの母語によるコミュニケーションの可能性について、権威ある学者の言葉が新聞にも書かれるようになれば、それが信じられる人も増えるだろうし、それに伴って実際にそれができる人もますます増えていくであろう。私が理想とするコミュニケーションが当たり前になる日も近い。となれば、私が失業するのももうすぐかな?

何であれ、究めて真理に近づこうとすると、自分がやっていること自体が無意味になってしまうという現実に直面しなければならなくなることがよくある。

例えば、医者が病気の根本的な治癒を目指せばどうなるか。上に出てきた野口晴哉が『風邪の効用』という本の中でも述べているように、病気の症状というものは、それ自体が「治癒」の過程なのである。ということは、病気の症状を抑える対症療法は全く必要ないということになる。医者は必然的に、患者自身の持つ自然治癒力を発揮させることだけに力を注がなければならない。自然治癒力を100%発揮させるためには、患者が自分の自然治癒力を信頼することが絶対的に必要である。だとすれば、医者は患者にこう言うしかなくなるのである。

「あなた自身が、あなたの病気を治す力を持っているのですよ。ただそれを信じれば治ります。」と。
つまり、医者は要らないということになるのだ。

自分が失業する覚悟がなければ本当の医者にはなれない。弟子が独り立ちして、自分が要らなくなる覚悟がなければ、本当の師にはなれない。民衆を支配する権力を放棄して、いるのかいないのかわからないような存在になる覚悟がなければ、本当の統治者にはなれない…

自分が何かを成し遂げているからこそ、自分には存在価値があると信じる人々にとっては、このことは到底受け入れ難いだろう。彼らは、自分たちの存在価値を確認するために、自分がやっていることの意義や自分の立場を守ろうとして、結局、偽医者、いかさま師、独裁者に転落するのである。だから「自分がしていること」に自分の存在価値を見いだそうとしてはいけない。価値があるのは、「あなたの存在それ自体」であって、それ以外ではない。

そろそろ私の「言語学こうぎ」も終わりが近づいてきたようだ。もう私が何も語らなくても、みんなわかってくれるだろうし、これから私の代わりに語ってくれる人もたくさん現れることだろう。私が完全に沈黙したとき、私は本当の私になる。なぜなら、私は生来のおしゃべりだから。

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