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「補講をせよ」という声(?)にお答えして、もう少しこのシリーズを続けることにします。

「名詞と動詞」

「品詞」というものがある。性質による単語の分類である。しかしながら、「分類」に付き物の矛盾は常につきまとう。同じ品詞に分類される単語であっても、よく観察すればその性質は少しずつ違う。厳密に言えば、単語の数だけ品詞の種類を設定することが可能なのだ。それでも、常識的に考えて、誰もが認める品詞というものがいくつかある。そのうちの代表的なものが「名詞」と「動詞」である。

「動詞」は動きを表す単語であるが、日本語においては、すべて-uで終わるので、分類するのは比較的易しい(もちろん「猿」のような名詞もあるが)。「名詞」はものの名前や事柄などを表すとか、主語になりうるとか、-が、-を、-の、などの助詞が付くというような基準で分類される。このように「名詞」と「動詞」は明らかに性質の違う品詞であり、この二つを混同する人はいないだろう。

「名詞」と「動詞」の大きな違いは、動きがあるかどうかによる。「動詞」は時間の流れに従って、刻々と変化する有様を表すのに対し、「名詞」は時間による変化がない。だから、「時制」や「アスペクト」があるのは「動詞」だけである(言語学こうぎ(11)参照)。

これに加えて、「動詞」は、その動きをする主体を必要とする。「が歩く。」「が食べる。」のように。

このような品詞の違いは、ひょっとしたら私たちの意識を攪乱しているのかもしれない。なぜなら、「名詞」によって表されるものであっても、時間による変化が本当にないわけではないからである。たとえば、「リンゴ」は永久不変であるかと言えば、そうではない。刻一刻と腐りかかっている。「私」も毎瞬間変化し続けているのである。つまり、この世に変化しないものなど存在しないのだ。だから、正確に言えば、すべての物事は本来は「動詞」で表すのが正しい。「リンゴ」ではなく、「リンゴしている」とか、「私している」のように。それを「リンゴ」とか「私」という「名詞」で表すことによって、世の中の物事が固定化してしまっているかのような錯覚に陥っている。すべての物事を「動詞」で表現してみれば、世界は刻一刻と変化しているという実感が沸くかもしれない。そうすれば、一旦決められた秩序や規則が永久不変であるかのように思い込んで行き詰まってしまっている人たちの頭も、少しは柔らかくすることができるかな?

また、すべてを「動詞」で表現するとなると、その主体も必要になってくる。「リンゴしている」「私している」主体は、いったい何だろうか? そのことについて考えてみるのも、面白いだろう。

『マトリックス』という映画の中でスプーン曲げをしている子供が、確か、「ここにスプーンはないよ。これは僕なんだ。(There is no spoon....)」と言っていたと思うが、これも「僕がスプーンしているんだ。」と言い換えた方が正確かもしれない。こんなふうに言えば、スプーンは「僕」の意志で簡単に曲がりそうではないか!

先日韓国から送られてきた雑誌(『今、ここ』)に、言葉によって病気を治すことができるというBarbara Hoberman Levineの文章が紹介されていた。例えば、癌について、I have cancer.と言う代わりに、My body is cancering.(あるいは、I am cancering?)と言うことによって、病気を発生させている主体は自分自身であるという意識を持つことができ、その結果、自分にそれを消し去る力もあるのだということが信じられるようになるというのである。本当はこのような言い方のほうが真実に近い。我々は、病気というものを「名詞」で呼ぶことによって、それが自分の力の及ばないところで起きている災難であるかのように思い込んでしまっているのだ。

世の中のすべての物事を「動詞」で表すとなると、その主体は何かな? 言うまでもなく、それは「私」!

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