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「過去、現在、未来」

長い間、私の言語学の研究テーマは「時制」であった。言語の中で「時」というものがどのように扱われているかを考え始めると、 当然「時とは何か」という疑問にぶつかってしまう。

言語学で「時」を表す範疇に「アスペクト」というものがある。それは簡単に言えば、「する」と「している」の違いである。「する」は、何かの動きを最初から最後まで完結したまとまりとしてとらえているのに対して、「している」の視点は動きの渦中の一時点におかれている。この区別にさらに過去時制が加わって、「する」「している」「した」「していた」という4つの表現形式が成立する。

「する」と「している」は「現在時制」だと思われるかもしれないが、実は、「する」という言い方では現在を表現することはできない。「食べるよ。」と言えば、これから食べるという未来の意味であって、今食べているという意味にはなり得ない。「ある」や「いる」などいくつかの動詞を除けば、今現在起きていることを表現できるのは、「している」という形式のみである。

「する」という基本形式で「現在」を表現することができないということは、考えてみればとてもおかしな事である。理論的に言えば、実在する現実は「現在」だけであるにも関わらず、言語では「現在」がないがしろにされているのである。

日本語の過去形の起源を見ても似たようなことが言える。「~た」という言い方は、「~たり」つまり「~てあり」が変化したものである。つまり、もともとは、「~してある」(~した結果が残っている)という現在の意味だったのである。それがいつの間にか「その行為が過去に行われた」ということ表すようになってしまった。(韓国語の過去形でも同じようなことが起きている。ただし、韓国語では、まだ「結果が残っている」という意味合いが強いが。)

このことは、人の意識がいかに「現在」に止まることが難しいかを端的に表している。私もかつて、現在とはすぐに過去になってしまう、つかみ所のないものだと思っていた。現在とは、未来と過去にはさまれた、「ほんの一瞬」にすぎないと。ようやく、自分が常に「今」を生きていると感じられるようになったのは、韓国留学中のことであった。(韓国遊学記(7)参照)

けれども、言語によっては、「時」というものを全く違った形でとらえているものもある。アメリカインディアンのホピ語には、 「時」を表す表現が存在しないという。

ホーピ語にはわれわれの言う「時間」とか、過去、現在、未来とか、持続とか継続とか、動力学的というよりは運動学的なものとして(つまり、ある特定の過程における動的な努力の現われというよりは空間、時間における継続的な変化として)の動き、といったものを直接指すような語も文法的形態も構文も表現もない。さらにまた、空間を指す場合にわれわれなら「時間」と呼ぶところの延長ないし存在を有する要素は除外しておき、その結果、「時間」という名称で指されうるような余剰部分を暗に残しておくというような表現の仕方すらもしないのである。つまり、ホーピ語には「時間」というものに明示的にせよ、暗示的にせよ、言及するものがないのである。(「アメリカインディアンの宇宙像 An American Indian Model of the Universe1936」p13-14『言語・思考・現実』B.L.ウォーフ著 池上嘉彦訳 講談社学術文庫)

ホーピ族の形而上学にも、このようなもの(過去、現在、未来を指す--私注)とその規模と範囲において十分匹敵するような宇宙形式がある。いったいそれはどのようなものであろうか。そこでは、宇宙には二つの主な形式が課せられる。それは近似的な表現で顕現された(manifested)と顕現されつつある(manifesting)(あるいは、まだ顕現されていない(unmanifested))、ないしは、客観的(objective)と主観的(subjective)と一応呼ぶことができそうなものである。客観的、あるいは顕現されたものとは、感覚によって知りうるか、またはすでに知り得たものであって、歴史性を内包する物理的な宇宙そのものがそれに当たる。ただし、そこでは現在と過去という区別の試みは適応されていず、われわれが未来と呼ぶところのものはいっさい含まれていない。主観的、または顕現されつつあるものというのは、われわれが未来と呼ぶところのものをすべて含んでいるが、決してそれだけではない。そこには、われわれが心的と呼ぶところのもの、つまり、心(mind)の中に現れたり存在したりするところのものすべて、が一様に区別なく含まれる。(中略)それは未来からわれわれの方に向かって進んで来るというようなものではなく、生命的な心的な形ですでにわれわれと共にあるのである。(p17-18)

つまり、ホピ語においては、過去も未来も、すべて現在にあるというわけだ。

浜崎あゆみの歌にも、こんな一節がある。

誰もが探して 欲しがっているもの
「それ」はいつかの 未来にあると
僕も皆も 思い込んでいるよね
なのにね まさか過去にあるだなんて
一体どれ程の人間(ひと) 気付けるだろう
予想もつかない   (Dutyより)

彼女は「未来=過去」という構図を提示することによって、そのあいだにあるはずの現在に意識を向けさせようとしたのではないか。

多くの場合、人はいつも過去のことを後悔し、未来を心配していて、肝心の「今」を生きていない。実はそのことが人生のあらゆる問題を引き起こしていると言っても過言ではない。

だから私はいつもこう思うようにしている。

「過去に起きたことはすべていいことだ。」(たとえそれが失敗や悪いことであったとしても、必要不可欠なことだったからしかたない。失敗は成功のもと。極悪人こそが大悟する。今はまだその結果が現れていなくても、いずれ必ずそうなる。)

「未来のことは心配さえしなければすべてうまく行く。」(心配すること自体が悪い結果をもたらす要因になる!)

あまりにも楽天的でバカみたいだと思われるかもしれないが、さんざん考え、さんざん悩み、さんざん失敗した末に、私が到達した最終結論である。

言語においては、未来を表す表現は「意思」や「推量」や「願望」といったほかの要素と結びついていることが多い。

未来のことは不確定だから断定することができないというわけだ。けれども、「~となりますように」とか、「~となるだろう」というような曖昧な表現では、言葉は現実を創造する力は持ち得ない。もしも自分が本当に望む現実があるならば、断定形を使って言うべきである。例えば、学校の先生になりたいのなら、「私は学校の先生になる」あるいは「私は学校の先生だ」というふうに。

そういえば、息子が3歳の頃天気を予言するときは、いつも断定していた。「今日は雨がふるよ。」それにひきかえ、テレビの天気予報はいつも「雨が降るでしょう。」としか言わない。これでは、当たらないのも無理はない。

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