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「反義語=同義語」

言語の意味について考えていたとき、ふと、息子のおもちゃが目にとまった。屋根についている赤いボタンを押すと、扉が横に開くバスである。

バスの説明図

確かに扉は開くのだが、その横にある、開いていた窓は、横滑りした扉に遮られて、閉まってしまう。これは、赤いボタンを押すという同じ動作によって引き起こされた現象である。開く、と同時に閉まる… 

扉だけ、あるいは窓だけに視野を限定すれば、確かに、「開く」と「閉まる」という正反対の現象が起きていると見ることは可能だが、視野を「扉と窓」全体に広げてみれば、それはただ、扉が横滑りしたという同一の現象なのだ。つまり、反義語=同義語というわけだ。

これは何も「開く」と「閉まる」に限った話ではない。すべての反義語は同義語になりうる。

例えば、「知っている」と「知らない」。ある学者が「塩」について研究した。そして、塩は過剰に取りすぎると高血圧を引き起こし、健康によくないと結論づけた。それを知った人々は、なるべく塩を取らないように心がけた。ところが、何年も経ってから別の学者が、実は塩に含まれるミネラルが健康に不可欠で、それを制限するのはかえって健康に悪いと言い出した… ある物事について、何かを知ると、視野はそのことに限定され、それ以外のすべてのことを無視してしまうようになる。つまり、「知った」分だけ、「知らない」ことが増えてしまったということだ。情報はたくさんあるほどいいと思われがちだが、それは「知る」ことによってスポットライトが当てられたこと以外のすべてのことに対する「無知」が深まったにすぎないのである。だから、情報が増えれば増えるほどかえって混乱が増すことになる。

息子はかつて、自分の直感で完璧に天気を言い当てたのに、天気予報を見るようになってしまってから、その能力が眠ってしまった。これもまさに「知る」ことによって「無知」になった例である。

「よろこび」と「悲しみ」。これも反義語と言えるだろう。私はかつて、この二つの言葉が全く同じ意味であると感じたことがあった。人生において、これほど深い悲しみはあり得ないだろう、と思われるような悲しみを感じたとき、私はなぜかこの上なく幸せだった。私ははっきりとこう感じた。究極の悲しみは、究極のよろこびと同じものである。そして、それこそが本当の幸せである、と。そのとき、私は完全に心が開いて、感受性が全開した状態であった。本当の幸せとは、よろこびであれ、悲しみであれ、完璧に「感じる」ことなのだ。

(そして、それは私が本当の相手と出逢ったときに起きた。)

反義語が同義語であることを受け入れるとき、それまで気づかなかった方向に視野は大きく広がり、感受性は格段に深まる。それは、人生において大きな困難に直面したとき、完全に行き詰まったとき、活路を開く突破口となる。

自分と正反対の者、つまり、自分の敵こそが、本当の味方なのである。完全な行き詰まりにおいて、自分を救ってくれるのは、敵しかいないのだ。だから大切なのは、敵から逃げないこと、敵とまっすぐ向き合うこと。敵はまさしく、自分が今まで気がつかなかった自分自身そのものなのだから。

(そして、自分の本当の相手こそが、自分の究極の正反対である。)

こんな話をした後、しばらくして、またある学生が研究室にやって来て、自分の経験談を話してくれた。
「先生、実は…」

彼は私の所に来るのをとてもためらったという。私に迷惑がられたり、怒られたり、バカにされたりするのではないか、と内心ひどく心配したのだそうだ。全く正反対の取り越し苦労である。私は彼の来訪によって、本当に勇気づけられた。「自分と正反対の者と向き合いなさい」という言葉を聞いてたとえ納得したとしても、いざそのときになれば、実行に移すのは容易なことではないから。彼は本当に勇気のある行動に出て、自分の人生を大きく変えたのだ。私は本当に素晴らしい学生に恵まれている。

PS 聞くところによると、UFOの扉は壁と一体になっていて、どこからどこまでが壁で、どこからどこまでが扉か区別ができないそうだ。そのような扉では、開けようとすると他のどこかが閉まってしまうような反作用は起きえない。つまり、人間が作ったものは、壁と扉が「分離」しているからいけないのだ。

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