Sun&Moonのリンク

父のこと

 娘の私が言うのもなんだが、父は本当に立派な人であった。直感で「今日子」という名をつけてくれたのも父である(これは大変深い意味のあることだ)。家庭では理想的な父親であり、良き夫であり、社会的には、上司にははっきり物を言い、部下を大切にする人望の厚い有能な人間だった。子供心に、父のような人が総理大臣になれば、この国はもっと良い国になるはずだと思っていた。父は国家公務員で転勤が多く、私は父が40歳のころ産まれたので、白髪混じりの父と散歩していると近所の人に「お孫さんとお散歩、いいですねぇ。」とよく言われたものだ。私には父に叱られた記憶はほとんどない(ただ一度だけ、理由は忘れたが、ひどく怒られて殴られたことがあるが、その後父は猛反省していた)

 私が馬に乗り始めたのも父の影響である。1964年の東京オリンピックの際に、馬術の障碍飛越競技の中継を父と一緒に見ていたとき、父は軍隊で「蒼内」と「秋山」という馬に乗っていた話をしてくれた。蒼内はおとなしくてとてもいい馬だったが、秋山は暴れ馬でよく落とされたそうだ(奇しくも母の旧姓は秋山である。また私は、障碍飛越競技を見ているときには「あんな怖いことは決してしたくない」と思っていたにもかかわらず、どういうわけか高校で馬術部に入って同じことをする羽目になってしまった)

 私にとってはあらゆる面で信頼できる頼もしい父だったが、一度だけ弱さを感じたことがある。それは父が長をしている役所で汚職事件が起きた時である。父は関連企業からの盆暮の付け届けもすべて母に送り返させるような真面目人間だったので、私は高校の漢文の時間に習った「内に省みて疚しからずんば、夫れ何をか憂え何をか懼れん」という言葉を引用して、憔悴した父を励ましたのだが、そのときだけは何かの接待を受けたことがあったらしく、名誉に傷がつくことをひどく心配していた。実際には特に父が咎められることもなかったのだが、心労によりかなり健康を害したのではないかと思う。

 高校3年の秋、受験も近づいてきたころ、父は仕事中に突然倒れた。脳溢血であった。東京の高校に通っていた私は、近くにいたせいで母や兄よりも早く病院に着いた。そのときの光景は今でも忘れない。人事不省に陥って変わり果てた姿になった父の耳元で「私が来たからもう大丈夫」と言ったことだけは覚えている。帰宅する電車の中で私は人目も憚らずに泣いた。あんなに立派だった尊敬する父にはもう2度と会えないだろう、という思いに駆られて。

 そのあと父は何度も手術を繰り返し、結局半身不随の身体となった。手術によって脳が受けたダメージのため、視野が極端に狭まり、かつての明晰さや判断力をすっかり失ってしまった。それからの父は母の介護なしには生きられなくなり、25年間、さまざまなストレスを母にぶつけながら生きていた。ときには杖をついて母と旅行を楽しんだりもしながら。

 父が元気な頃、こんな話を聞かせてくれたことがある。

 子供の頃、神社の賽銭を盗んで、硬貨の穴に紐を通して勲章を作り、友達に分け与えた話。父親が飲みに行って女性たちにお金をばら撒くのが嫌で、その仕返しをするために、彼女たちが拝みに行く神社の賽銭を盗んだのだと言う。それから理由は忘れたが、山林に火を付けた話…  どれもとんでもない話で、今なら少年院に入れられてもおかしくないことばかりである。それから青年時代にはスキーのジャンプ競技に出ていて空中で片方のスキーが脱げてしまい、脚を複雑骨折して辞めたとか、野球のキャッチャーをしていて鼻をバットでへし折られて辞めたとか、戦時中に軍隊にいるときには禁書を持ち込み、上官に思い切り殴られて病院送りになった(そのおかげで外地に赴くことなく命拾いをした)とか… 結構短気だったので、母親から、怒りを感じたら自分の小指を舐めてそれが乾くまで待て、と言われ、それを実践するように心がけていたそうだ。

 これだけでもひどく破天荒な人生であるが、父のさらなる驚くべき姿を知ったのは、父が亡くなってから、従姉妹の話を通してであった。彼女は自分の母親(父の妹)からたくさん伯父(父)の武勇談を聞いたと言う。

 あるとき私は、教え子が先生をしている高校で模擬授業をしてくれと頼まれた。そこは奇しくも父の母校だったためそのことを従姉妹に話すと、実は父が在学中に生徒たちを扇動して授業をボイコットしたことがあると教えてくれた。理由は、軍国主義教育に我慢がならなかったから、だそうである。そのせいで父は大学受験に3度も失敗したのだと言う。私は父が日本大学で島崎藤村について研究したことは知っていたが、東京帝国大学を3度も受験していたとは知らなかった。不合格に納得できずに理由を問い合わせたところ、試験の成績は合格点だったが、提出書類に授業ボイコットの件が赤字で書かれていたからだと言われたそうだ。

 

 父から聞いた話でとても印象に残ったことがもうひとつある。厳寒の下田の海で釣りをしていたとき、風に煽られて荒れ狂う海に落ちてしまった。一緒にいた人たちはだれもが助からないと思ったらしい。ところが本人は冷静なもので、海の中を沈んでいく間にこう考えた。今、沈んでいく勢いに逆らって浮き上がろうとしてもうまくいかないに違いない。ここは岩場だから底まで行って一気に蹴りあがろう、と。それで身軽になるためにコートを脱いだり長靴を脱いだりして、底に達したときに思い切り蹴りあがり、浮き上がって助かったのだそうだ。

 流れに逆らえば力は相殺されてしまい、かえって浮上を困難にする。底を打つという父の選択は正しかった。しかし底を打つまで沈んでいくことができる勇気を持てる人が、果たしてどれだけいるだろうか? 底までどれくらいあるかわからないし、息が続くという保証はないのだ。私は父の勇気と大胆さに深い感銘を受けた。この話は私がその後の人生においてさまざまな困難に直面したとき、いつも私を励ましてくれる。

 子供の頃、父は私に島崎藤村の「夜明け前」を読むように勧めた。その当時は内容が難しすぎてなかなか読み進めることができず、放って置いたものを読了したのはつい最近のことである。急に読む気になったのは、今という時代がまさに「夜明け前」であり、また、父がなぜこの本を読めと勧めたのか知りたくなったからである。

 父が主人公の青山半蔵に共感していたことは間違いないであろう。父もまた、心の奥ではこの世の変革を望んでいたに違いない。従姉妹によれば、戦死した父の親友からの手紙には、「君が世界で名を轟かす日が来るのを心待ちにしている」と書いてあったと言うが、結局自分ではそれを果たせずじまいだった。青山半蔵は最後に狂人として扱われる羽目になり、父は病に倒れた。私は、父のような有能な人材を病気にした神の意図を長いこと理解できずにいた。あれほど社会で活躍していた人が家で「無為に」過ごさなければならないなんて、父にとってどれほどつらいことだっただろうか。もしも父が元気に社会で働いていたら、もっと素晴らしい社会貢献ができただろうに、と。

 けれども今ならその理由がわかる。父は本当は自分が愛する人(母)と、ずっと一緒にすごしたかったのだ。けれどもそのためには病気という口実が必要だった。もしも父が健康だったら、社会的な立場を捨てられず、仕事に忙しい毎日を送らざるを得なかっただろう。どんな社会貢献よりも、たった一人の人をとことん愛することのほうがずっと価値があることだということが、今の私にはわかる。本当の相手同士が調和することは、何よりも大切で価値のあることなのだ。かつてイエスはこう言った。「もしも二人が一つの家の中で平和に暮らし、『山よ、動け』と言えば動くであろう」と。亡くなるとき、父は母の頭をなでながら、大変満足そうだった。「我が人生に悔いなし」と言っているように感じられた。

 

 自分がこんな父の娘として恥ずかしくないと思えるようになったのは、1994613日からである。あの日から私は自分を守ることをしなくなった。父のように、本当に正しいと思えることに捨身でぶつかれるようになった。今や、かつてのように「狂気」や「病気」を口実にしないで、自分の本音が貫ける時代、そのように生きることこそ正しいと思われる時代が訪れつつある。私が父の代わりにその願いを実現することができる日も近い。

つぎのブログ記事も参照してください。

そういえば…

父に約束したこと

両親の性教育

戻る