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調和した新時代のための実践的陰陽論

すべてのものは陰と陽から成り立っているという考え方は東洋哲学の基本である。
男と女、太陽と月、光と闇など様々な事物や現象にその特徴的な姿を見ることができ、古くからいろいろな研究が行われてきた。けれども、ここで論じようとするのは、そのような様々な研究に基づいた、学究的、知的な陰陽論ではなく、私自身の経験に基づいた、体験的、感覚的な陰陽論である。

もともと、陰陽思想というもの自体も、かつては自らの体験や感覚と密接に結びついたものであったに違いない。そしてそれは自らの人生を生きていく上で大切な道しるべとなり得たはずである。けれどもそれが次第に自らの感覚から離れ、知的な議論自体が目的になっていくに従って、それは一部の知的な学者のための難解な哲学となってしまった。私は今もう一度、陰陽思想を体験と感覚の領域に結びつけようと思う。それは、今という時代を生きるすべての人々にとって最も切実な、いかに生きるかという問題に、ひとつの道しるべとなるはずのヒントを提示するためである。

さて、私は女性として生まれたので、陰陽の考え方からすれば私は陰である。つまり、私は体験的に陰であるとはどういう事かを知っていると言うことができる。その意味では、私は男性ではないので、体験的に陽であるとはどういう事かを知ることはできない、ということになる。

ところが実を言えば、本当の意味で「私は体験的に陰であるとはどういう事か知っている」と断言できるようになったのは、「陽であるとはどういう事か」を私自身が体験的に知ってからであった。つまり端的に言えば、私は人生のある一時期、自分があたかも男性であるように感じるという特異な体験をしたのである。そのとき、私は男性が感じるようにこの世の中を体験した。それは非常に衝撃的な、苦痛に満ちた体験であった。そのとき私は男性=陽であることがどういう事かをはっきりと知り、それと同時に女性=陰についても知ったのである。

なぜ私がそのような辛い体験をする羽目になったかに付いては少し説明が必要である。陰陽思想によれば、陰は陰だけでできているのではなく、内に陽を含んでおり、陽も同様に内に陰を含んでいる。それはしばしば陰陽の図の中の小さな○によって表される。

つまり私の中にも陽が含まれているという事である。けれどもそれは「暗に」であって、実際に感じたり自覚することはできない性質のものであった。ところがそれがある時一人の男性との出逢いによって完全に呼び覚まされたのである。その男性はまさしく、私の中の内なる陽とぴったり合致する、私の真の片割れであった。その出逢いによって私は、陰と調和できずにいる陽であることのストレスと苦しみをいやと言うほど思い知らされることになった。それと同時にこの世のあらゆる争いと不幸が、実はこのストレスに起因していること、すべての問題の解決には、陰と陽の真の調和が不可欠であることをはっきりと感じたのである。この文はこの世の陰と陽が真に調和することを切実に願って書かれたものである。

男性=陽は棒に例えることができる。棒には両端、つまり二つの極が存在する。善と悪、美と醜、大と小、などなど。男性はそれ自体では大変不安定であるため、両極端であることを嫌い、自らを中心部分に向けて引っ張っている。つまり男性には常に自制という力が働いている。これが男性=陽エネルギーの持つストレスである。男性は、本来は棒なので、完全に満足するためにはこの棒を完全に経験しなければならない。けれども自制心をはずしてしまえば両極端に走ってしまうことになるからそれはできない。男性はこの世の中でまともであろうとすれば常に自制し続けなければならない宿命を負っている。故に男性はいつも緊張しており、純粋だが攻撃的で、存在していること自体が一種の苦しみであると言える。

これに対し女性=陰は円に例えることができる。円にはいかなる極も存在しないので安定している。故に女性はいつもリラックスしており、柔軟で、受容性に富んでいる。

ところがこの女性が自らの中の内なる陽と合致する男性に出逢うと、男性のストレスに気づき、これを解消してやりたいと願うようになる。このとき女性は円が開いて半円になり、初めて不安定な状態におかれる。このとき女性は自分が陰であることをはっきりと自覚する。

この女性の半円は、自らの片割れである男性の棒の両極を正確につなぐことができる。これによって、男性は初めて棒である本来の自分を完全に経験し、円である状態、完全な安定、自由を獲得する。こうして男性は生まれて初めて、本来の自分に自信と信頼を持つことができるのである。男性=陽エネルギーのストレスは完全に解放されて円をめぐり、女性もまた、今まで経験したことのない純粋で生き生きとしたエネルギーに満たされる。このような陰と陽の調和は、安定していながら躍動的であり、泉のように湧き出すエネルギーの源泉である。

これが理想的な陰と陽の調和の姿であるが、そこに至る前にどうしても突き破らなければならない壁が存在する。それは自らが自分であると信じているものの破壊である。

 

男性は常に自制していなければならないために、自制心こそが本当の自分であるかのように錯覚してしまっている。ところが自らの内なる陰と合致する魅力的な女性に出逢うと、男性=陽エネルギーは、両極に向かって強烈に突進して自制心と格闘を始めるのである。男性=陽エネルギーが解放されて円をめぐるためには、自制心が完全に破壊されなければならない。それは男性にとっては、大変な恐怖である。自分がかつて経験したことのない極端の領域にはいることになり、何をしでかすか分からないからである。また、それは同時に今まで自分であると信じてきたもの(自制心)の死を意味する。男性=陽は、女性=陰と真に調和して解放されるためには、どうしても「死」の恐怖を突き破らなければならない。

女性もまた、今まで安定していた円を破壊して不安定な半円になり、今まで経験したことのない強烈なエネルギーが流れ込むことに恐怖を覚える。女性もまた、自らの内なる男性が「暗に」持つ自制心の破壊に直面しなければならないのである。けれども女性は円であったことがあるので、表面的には、再び円になることを受け入れる勇気を持ち合わせている。

自制心こそが自分であると思いこんで、何事にも動じない自制心を強化することこそが自分を完成させることであると信じてきた男性にとっては、この事態は耐え難い苦痛である。彼らは両極に向かって突進しようとする男性=陽エネルギーを汚れた欲望であると決めつけて押さえ込もうとし、片割れの女性を、自分を堕落させる悪魔であると糾弾することで自ら(自制心)を守ろうとする。けれどもそのような努力をすればするほど心の中の葛藤は激しくなり、その葛藤を押さえつけるために多くのエネルギーを浪費して自分をますます苦しめる。なぜならば、誰もが本当は、本来の自分(棒)を完全に経験して、男性=陽エネルギーのストレスから解放されることを切望しているからである。

この状況を打開する唯一の道は、今まで自分だと思ってきた自制心が実は本当の自分ではないこと、本当の自分は棒であることをはっきりと自覚し、かつ、その棒を信頼することである。本当の自分を信頼すること、それだけが自制心の破壊に耐える勇気を与えてくれ、新しい未来を開く力となる。逆に本当の自分を信頼せず、自分であると思っているもの(自制心)を防御しようとすれば、事態はますます困難になるだけである。

このような原理は、男女の問題に止まらず、政治的な問題にもあてはまる。

朝鮮半島では南北が対峙しているが、北はまさしく男性=陽のエネルギーの現れであり、南は女性=陰のエネルギーの現れであると言うことができる。北は強烈な統制(自制心)によって成り立っており、大変純粋だが攻撃的で柔軟性がない。これに対して南はあらゆるものを受容する柔軟性があるが、雑多のものを受け入れたために純粋さに欠ける。北は南を受け入れることによって統制(自制心)が破壊されることを恐れ、南は北の純粋で強烈なエネルギーが流れ込むことを恐れている。そのためにお互いにあれほど統一を熱望しながら果たせずにいる。

このような事態はどうしたら解決できるだろうか。それは男性と女性の調和の場合と同じである。北にとって本当の自分(棒)とは何か。それは言うまでもなく人民である。ところが北は全体主義体制や主体思想のような自らを統制する組織、制度や精神(自制心)こそが自分であると思い込んでいて、肝心の実在である人民を信頼しようとしない。南を受け入れることは体制や思想(自制心)の破壊であり、自らの死であり、純粋さを失う堕落であると思っている。それ故人民の動揺(自らの葛藤)を押さえつけるためにますます統制を強め、軍事力を増強してエネルギーを浪費して人民を疲弊させる。この状況は自制心の強い男性が恐怖から女性を受け入れまいとする状況と共通している。

一方南の個人主義社会は基本的には国民を信頼し、その自由な活動を認めた上で成り立っているから、北のような体制崩壊の危機感はないが、実は物質至上主義や拝金主義がはびこる現状に不満を感じている。それ故表面的には北を受け入れる勇気があると言いながら、暗に北の強烈で純粋なエネルギーの流入によって自らが変化することをを恐れているのである。そのため南は北の突然な崩壊を望まない、などと言う。けれども自制心の破壊による陰陽の調和は、必然的に劇的な変化をもたらさざるをえないのである。突然の崩壊を拒否することは、北が現在の窮地から抜け出すことを拒否するのと同じである。南が北の劇的な変化を容認し、自らも安定した円(現在の秩序)を放棄して一時的に不安定な半円(混乱)となり、北の純粋なエネルギーを受け入れる覚悟を決めること以外に、事態打開の道はないのである。

大韓民国の国旗である太極旗の中央に描かれている陰陽の図は上(北)が陽(赤)で下(南)が陰(青)であるが、この不思議な符合は19世紀に作られたとされるこの図の作者が、あたかもこの国の苦難の歴史を予見していたかのようである。しかしながらこの旗の名前が示すように、この図は陰と陽の分裂ではなく、陰と陽が調和してが太極になることを表しているのである。太極は陰でも陽でもない、万物創造のエネルギーの源泉である。つまりこの図は、北と南が、全体主義でも個人主義でもなく、精神至上主義でも物質至上主義でもない、全く別の次元で統一されることを示しているのである。あたかも幸福に満ち満ちている調和した男女のように、精神の純粋さと自由、それに過不足のない物質が共存する、躍動するエネルギーに満ちた全く新しい形の社会が朝鮮半島に誕生する可能性の暗示である。

個人の次元での陰陽(男女)の調和と、社会の次元での陰陽の調和のこのような相似は、まさに最新の科学で話題になっているフラクタルそのものであると言えよう。互いに似たものは波動のレベルでお互いに影響を与えずにはおかない。個人の次元での調和が達成されれば、社会の次元での調和も達成されやすくなる。つまり我々一人一人が個人的な次元において調和に向かって進み、幸せを掴むことが、国家間の対立を解消し調和へと導く力にもなるのである。

本当の自分を信頼する勇気によってのみ開くことのできる、陰と陽が調和した未来がどのような世界であるか、ここで具体的に説明することはできない。それは今までの言語が表現できる限界を超えているからである。陰と陽が調和する力は、現存するあらゆる秩序(組織、思想、概念など)を破壊する力となって働き、全く新しい次元での秩序を形成する。浪費のない調和したエネルギーは我々の想像をはるかに超える、ダイナミックで強烈な力を生み出し、我々を別の次元へと送り出すのである。

もしも現存の秩序(組織、思想、概念など)こそが自分であると思いこみ、それを守ろうとしてこの力に抵抗するならば、人々はその力にとてつもない恐怖を感じ、状況はますます困難になるばかりである。そのような偽の自分ではなく、エネルギーとして存在する本当の自分を信頼し、そのエネルギーを解放することこそが、これから起こる世界のあらゆる変動を乗り越えるカギである。それは死の恐怖の中に自らを進んで投げ出すことに等しい。けれどもその勇気は、幸せに満ちた輝かしい未来を約束してくれるに違いない。

1996.10.7

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