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恐怖を見る

「恐怖を見る」ことが、人生最大の課題である。

自分には、何も恐れるものなどない、と思っているかもしれない。けれどもそれは潜在意識の中に隠れているだけで、存在しないのではない。何かの拍子に、たとえば夢の中で、それは姿を現す。誰でも、意識の中の一番深い所、一番触れたくない部分にそれはある。

それは簡単に言えば、「自己防衛本能」の裏返しである。誰でも、無意識のうちに今の自分を守ろうとしてしまうものだ。自分に危害を加えるかもしれないものから身を守り、自分が慣れ親しんだ生き方、生活を維持しようとすることは、至極当然のことのように思われている。だから、世の中のあらゆるものが、より上手に自分を守れる方法を模索し、宣伝し、「こうすれば安心して生きられますよ!」と売り込みに懸命である。

けれども、そのようにすれば本当に自分は守られるのだろうか。たとえば、老後の生活が心配だからと、年金保険に入り、不動産投資をすれば、本当に安心なのか。社会が不安定さを増すにつれ、今度は保険会社の倒産、あるい地震の心配をするはめになる。また、不審者が子どもに危害を加えるのではないかと心配して保護者が送り迎えをするようになると、今度はストレスの溜まった保護者が加害者になるような事件が起こる。

このように、「恐怖」や「不安」を解消するためにとられる対策は、なんら根本的な解決にはつながらない。そこに「恐怖」がある限り、どんなに逃れようとしても「恐怖」は常にあなたにつきまとう。そうして結局誰もが、「恐怖」に直面せざるを得なくなる。

世の中の人は、とても大切なことを忘れている。それは、「現実」は、自分の意識によって引き起されるということだ。悲観的な人よりも、楽天的な人の方が明るい人生を歩んでいる例が多いのは、誰しも気づくことである。自分の中に「恐怖」があれば、それが「恐ろしい出来事」が起きる要因になる。だから、自分の中の恐怖を消さずに、いくらそこから逃げようとしても、決して安心は手に入らない。自分の中の恐怖を消すためには、それを直視するしかない。「見る」しかないのだ。

では、「恐怖を見る」とは、どのようなことか。

たとえば、決して起きて欲しくないことがあるとする。それが起きることが怖くてたまらない。だから、何としてもそれが起きないように、いろいろな対策を講じる。これはまさに恐怖から逃げようとする行動である。けれども、皮肉なことに、そうすればするほどその現実はますます近づいてくる。この悪循環から抜け出すにはどのようにしたらいいか。

まず、その「起きて欲しくないこと」が実際に起きたとを想像してみる。それは考えるだけでも嫌だろうが、逃げていても決して解決にはならないから、覚悟を決めてやるしかない。そして、それがそのときの自分の気持ちを深く感じてみる。そしてどんなに不愉快でもそれを受け入れる。

泣きわめいたり、「嫌だ!」「怖い!」と叫んだりしても全然かまわない。すべてを許し、受け入れる。そして、すべてを起きるに任せる… それができれば、もう。あなたの中に恐怖はない。恐怖がなくなれば、もうその現実は起こる必要がないのである。あるいは、仮にそれが起きたとしても、それはあなたにとって何ら悪い結果をもたらさない。

では、恐怖から逃げることによって、守ろうとしていた「自分」とは一体何だったのか? それはただの「殻」であって、本当の自分自身ではなかった。本当の自分は、決して枯れることのないエネルギーの泉である。壊れたものは、自分を制限し、不自由にしていた、だだの枠に過ぎなかったのだ。枠が壊されれば、泉からはもっと生き生きとエネルギーが湧き出す。生きているという実感が溢れ出すのだ。

もちろん、殻を破ることによって、あなたの将来は一気に流動的に、不確定になる。何が起こるかわからない。それは今までのあなたにとって、とても怖いことであったに違いない。でも、恐怖がなくなれば、未知の未来は恐怖からわくわくする冒険へと変貌を遂げるのだ。

2006.3.2

続・恐怖を見る

かつて、包丁を突きつけながら、「恐怖を見ろ!」と人を脅してまわった男がいた。(実話)

脅された人々は、皆一様に、「何をするんだ!」と怒り、「やめろ!」と怒鳴ったり、何とかして男をなだめすかしてやめさせようとしたりした。けれどもそれらは何の功も奏さなかった。男は、そのような彼らを容赦なく殴りつけ、「恐怖を見ろ!」とさらに追いつめた。

けれどもそのうち、何人かがついに男の意図を正しくくみ取った。そして、その場の状況から逃げようとするのをやめ、恐怖を『見た』!すると、その瞬間、男は直ちに包丁を納めてその場を立ち去ったのである。

この男には、彼らを傷つけようとする意図など、全くなかった。ただ、彼らを「恐怖」から真に解放しようとしただけなのだ。男は、「この世の人間を恐怖から解放しろ」という天の命を忠実に履行しただけだったのだ。それなのに、包丁を突きつけられた人々は、自分たちの「常識」に合わない男のほうが「狂っている」と判断した。残念ながら、最後まで男の意図がわからずに、男をなだめようとした老人は、哀れにも階段の二階から突き落とされてしまった(怪我はしなかったが…)。

ふつう人は、恐怖を感じるような状況に陥った場合、その恐怖から逃れようとして、「どうしてこうなったのだろう」とか「どうすればこの状況から脱することができるのだろうか」と考え、一生懸命対策を講じようとする。一般的にはそれが正しい態度だと思われているが、実はそれでは問題は全く解決しない。

その恐怖を作り出しているものが何であれ(悪人であれ、狂人であれ、病気であれ…)それを動かしている意図は、もっと大きな存在、すなわち天なのだ。だから、彼らがなぜそのような行動に出たかを詮索するのは、全く意味がない。なぜなら、天の意図はただひとつ、「人間を恐怖から真に解放すること」であり、そのために人間が恐怖に直面せざるを得ないようにし向けているだけなのだから。

男が包丁を突きつけてまわったとき、私は男の味方だった。もう十年以上も前の話だ。世の中が混乱していた「非常事態」のさなかに起きた出来事だった。

今、ここにそのときのことをもう一度書こうと思ったのは、世の中全体があのときのような極限状況に近づいているからである。これから、このようなことは誰にでも起こりうるのだ。全く理解できない状況で理不尽な「恐怖」に直面させられることが。

どうか忘れないでほしい。そのときの対処方法は、「恐怖を見る」しかない、ということを。その状況を分析したり解釈したりして、何とか恐怖から逃げようとしても、無駄なのだ。

2006.4.1

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