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自分を明け渡すことについて

 独裁者の言いなりになるとか、世の中を牛耳っている連中に支配されるの良くないことだし、まっぴらだと思う人は多いだろう。にもかかわらず、今の世の中はそちらのほうに突き進んでいる。  しかし実は、何かに自分を明け渡すこと自体は、悪いことではないどころか、必要なことですらある。どんなに嫌でも、人は最後には神に対して自らを明け渡さなければならない。そうしなければ究極的に追い詰められる。

 忘れもしない1994613日。

 私は天に「死ね」と命令された。

 その頃の私は人生において最も追い詰められていて、この世に対するあらゆる執着を手放した状態だった。だから迷いなく「死にます。」と答えた。私は天に対して、私の全てを明け渡した。当然私は、自分が殺されるものだと思っていた。ところが実際には肉体は死なずに、私は自分自身に対するコントロールを完全に失っただけだった。私の身体は何者かに完璧に支配されていた。私はただ、自分がすることをすべて受け入れ、観ていることしかできなかった。

 これはものすごく恐ろしい状態である。自分が何をしでかすか全くわからないのである。極端に言えば、誰かを殺してしまうかもしれないし、公衆の面前で裸で踊り出すかもしれない。しかし実際に私がやったのはそんなことではなく、タクシーの「無賃乗車」であった。何も持たずにタクシーに乗り込んだ。一体どこに行こうとしているのかもわからずに  実はそのとき私が向かったのは、驚くべきことに、私の本当の相手の家であった。私が行きたくてたまらなかった場所。何もかも捨てても行きたかった場所。自分を完全に天に明け渡していなかったら、決して行くことはなかったに違いない。そんなことしたら、子供はどうなる? 家庭は? 明日の授業は? もしも少しでも「自分」が残っていたら間違いなくブレーキをかけたであろう。

 そのとき私は初めて理解した。天(神)が私に「させたい」こととは私が心の底からしたいこと」だったのだ、と。何の迷いも躊躇いもなく、何の心配もせずにただ、本当にしたいことをするのが正しいのだ、と。自分の真の本音が神と繋がっていることを悟った瞬間であった。(それが正しい行動であったことは後になってわかった。詳しい顛末については自叙伝を参照してください。) 現在の私もそのときの延長線上にある。本音で生きるのが正しいと主張し続ける理由もそこにある。

 もしかしたら、私が明け渡したのは本当に「天」に対してなのか? 何かよからぬ邪神に明け渡したのではないか? と疑う人がいるかもしれない。結論から言えば、「何に対して」明け渡したかは、さして重要ではない。「完璧に」明け渡したかどうかが重要だ。だから、たとえ独裁者に対してであっても、その人を完璧に信頼し、自分の全てを明け渡したなら、その独裁者も「神」のように振る舞わざるを得ない。

 世の人が、独裁者や宗教者などに対して自分を明け渡すときには、決して「完璧に」明け渡しているわけではない。その方が自分にとって有利であるとか、身の安全が保たれるとか、無難な日常が守られるとか、自身の魂の向上に資するとかといった意図が必ず含まれている。それは完璧な明け渡しではなく、奴隷状態である。

 本当の明け渡しとはもっと壮絶で、もっと勇気がいることである。だからみんなそこから逃げようとする。しかし、すべてを解決する鍵はそこにしかない。

 神に自分を明け渡すこととは、自分を完璧に信頼することと同義である。

 すべての人は神の一部なのだから。

2022年3月10日ブログ記事より転載

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