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絶対的な信頼について

絶対的な信頼とは、100%信じることである。それはいかなる場合にも最も効果的で、効率的で、調和のとれた行動を生み出す。それは絶対善であり、自分にとっても、他人にとっても、最大の幸福をもたらす源となる。

故に、あらゆる行動を絶対的な信頼に基づいて行え、と言うと、それはともすれば盲信、狂信的であるように受け取られるかも知れない。人々は狂信的なカルト集団の教祖を盲信したために引き起こされた残虐な事件を連想し、こう考える。何でも信じ込むのはいけない、批判的、客観的であってこそ正しい判断が下せるのだ、自分勝手に何もかも信じ込んで行動するなどとんでもないことである、と。しかしここには大きな誤解が存在する。

絶対的な信頼とは、文字どおり絶対的、100%なのであって、そこにはいかなる内部的な葛藤も存在しない。自分の心の中に、信じることに対する一点の迷い、気のゆるみも存在しない。それは信じようとするいかなる努力も必要としないのである。なぜならば、それは自分の心の奥にある最も根源的な願いと合致しているからである。絶対的な信頼は常に自然であり、リラックスしていて、無理がなく、穏やかでありながら、時として何者にも勝る強大な力を発揮する。それはあたかも、自分の本当の伴侶に出逢った時に感じる愛のようなものである。愛はよどみなく湧き出して、喜びと感謝に満ちる。愛することに何の努力もいらないし、永遠に愛し続けると約束する必要もない。なぜならそれは自明のことだからである。究極的な男女の恋愛は、絶対的な信頼が何であるかを知るための最も確実な道である。

いわゆる狂信的なカルト集団は、教祖を信じさせるために多くの規律を設け、それによって信者を縛り付ける。信じることに対する疑いが生じれば、修行が足りないせいだと非難し、気のゆるみは悪魔のささやきである、などと教える。気がゆるめば信じられないものなど、絶対的な信頼であるはずがない。故に彼らは絶対的な信頼に基づいて行動しているのではなく、盲信によって行動しているのである。そのような点から言えば、この社会には宗教的なカルト集団以外にも、似たような集団、組織はいくらでも存在する。

人の心の奥にある最も根源的な願いとは、うつろい易い見せかけの幸福や、他人の犠牲によってもたらされる自分だけの利益ではない、真の幸福、真の調和に対する渇望である。それは神がすべての人の心に植えた種である。それは心の最も深いところにあるために、一時的な偽の欲望の山に埋もれてあたかも存在しないかのように思えても、すべての人の心の中に常に脈々と息づいていて決して消え去ることはないのである。故に、人がその根源的な願いに合致しないことを信じようとすると、必ずそれは心の中で密かな反発を開始する。信じ続けるには、この反発を押さえつけ、自分を律する努力をしなければならない。人は決して、自らの根源的な願いに合致しないことを100%信じることはできないのだ。そしてそのような不完全な状態から生み出された行動は決して真の幸福、調和をもたらすことはない。

だから自分が100%信じられればいいのである。他人の批評など気にすることはない。自分の中に深く顧みて、何の努力もなしに、何の疑いも生じなければ、それが最善の行動の源なのである。自分を最大限に許して、心の中のどんな微かなささやきにも耳を傾けてみるがいい。時には驚くような、あるいは耳を塞ぎたくなるような声が聞こえてくるかも知れない。けれどもどんな声にも心を開き、許して聞き続ければ、必ず根源的な願いに行き当たる。それが何かにはっきり気づいたなら、そのことを100%信じるのにもはや何の努力もいらない。

自分の根源的な願いに行き当たったとき、人はしばしば恐怖におののいて引き返そうとする。それは絶対的な信頼というものが、人を完全に脱皮させ、全く新しい次元に生まれ変わらせるからである。今までの自分は完全に死んで未知の自分が誕生する。自分は気が狂ってしまうのではないかと思うかも知れない。けれどもそんな心配はいらない。この世を創造した力を信頼せよ。自分自身を信頼せよ。そしてあたかも最愛の人の胸に身を任せるようにその変化に身を任せるがいい。そのとき全く新しい自分が生まれる。

1996.3.28

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