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「第一章 『光あれ』」

聖書の「創世記」第一章に、次のような文章がある。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。……神はまた言われた。「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。」 そのようになった。……神はまた言われた。「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ。」そのようになった。……

「開けゴマ!」と言えば開く扉もそうだが、言葉には現実を生み出す力があるということは、聖書に限らずいろいろなところで語られている。けれども、私たちが「パンよ、出でよ!」と言ったところで、直ちにパンが出現するわけではない。

一体、現実を生み出す力のある言葉と、そうでない言葉の違いはどこにあるのだろうか。

息子がまだ幼かった頃、彼の発言はことごとく現実と化した。「この道はもうすぐ工事するよ。」「今日は雨が降るよ。」等々。これらは、息子の発言によって現実化したのか。それとも、息子はそのような現実が起こることを察知して、このような発言をしたのだろか。

それがどちらかはさておき、息子の発言は一体どうして「現実化」する力を持ち得たのか、ということを考えてみれば、その理由はただ一つ、発言に一切の邪念がなかった(幼児だから…)ということに尽きる。

息子は今年、15才になったが、最近でも、たまにそのような発言をすることがある。例えば「3月14日にポンポンに会いに行くぞ。」という彼の言葉を聞いたとき、私はなぜか、この言葉には逆らえない、と思ってしまった。自分が間違いなくそのような行動に出てしまうだろう、という気がしたのだ。彼の言葉にはそのように、人を動かす力があった。それは実に淡々としていながら、確信に満ちていたのである。さらに大切なことは、その言葉の中に一切の邪念がないこと、彼が何かの利害を計算して言った言葉ではない、ということだ。

自分の心の一番深いところから、一切の邪念をはさまず、何の疑いもなく100%の確信を持って、発した言葉は、必ず現実となる。唯一の問題は、そのような確信を持って発言することが非常に難しいということにある。例えば、何かの病気にかかっている人が、そのような確信を持って「病気は治った。」と言えば、間違いなく、病気は治る。けれども、何年もその病気で苦しんでいる人が、ある日突然そのような確信を持って発言することは不可能に近いであろう。だから病気が治らないだけのことなのだ。

こう書くと、次のような恐れを抱く人がいるかもしれない。

この世の誰かが、そのような確信を持ってしまったら、その人は何でもできることになる。そうなれば、例えば、「○○よ、死ね。」と言うこと(呪い)で人を殺すこともできるし、「××は私のものだ。」と言うことで人から何かを奪うこともできるのではないか。 そんなことになったら大変だ、と。

でも、そんな心配は無用である。次の図を思い出して欲しい。

人はみな、このように心の一番深いところでつながっている。だから、誰であれ、心の一番奥から言葉を発するということは、とりもなおさず、それが万人の総意であることを意味する。つまり、この世の誰一人として、あなたが心の一番奥で望んでいないことを言葉にして現実化させることはできないのだ。

ただし、もしもあなたが普段心の一番奥を見ようとせず、表面的な自分だけで生きているとしたら、その発言はあなたの恐怖を呼び起こすことになるだろう。あなたがいつも目をそらせてきた自分の「本音」に直面させられることになるのだから。

さて、では最後に、どうしたらそのような発言をすることができるかを述べよう。次の言葉にそのヒントがある。

イエスが言った。「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つならば、山に向かって『移れ』と言えば、移るであろう」(『トマスによる福音書』荒井献訳 講談社学術文庫)

「二人」とは一体誰と誰を指すのだろうか。それは、あなたとあなたの本当の伴侶のことである。あなたの本当の伴侶は、先の図の中の、あなたの対角にあるあなたと同色の部分である。その二人が「同じ家で平和を保つ」ということは、二人が円の中心で交わっていることを意味する。それはつまり、万人の総意を表す場所に留まっている、ということである。だから、そこで発するすべての発言が現実化するのは当然のことである。

その場所はすべてを生み出す創造の源である。つまりそこが「神」そのものなのだ。

本当の伴侶との出逢いは、すなわち神との出逢いである。二人が本当に愛し合うことができれば、この世に不可能はない。いかなる現実も意のままに創造できるのだから。

(ps. この文章を書いていて、突然デジャブを感じた。私は確かに、HPにこのような文章を書いているビジョンを見たことがあった…)

 

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