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「男と女の違い」

男と女の違いと言っても、もちろん個人差がある。男の中にも女性的な面があるし、女の中にも男性的な面がある。けれども、やはり「男性性」と「女性性」は、明らかに異なる性質である。

『癒しのことば』の中には、性差について次のような記述がある。

女性は男性よりも受け手として鋭い感受性を持っているのだろうか? あるいは女性はこの種の体験を男性より気軽に口にするだけなのか。スティーヴンソンは、自身の研究からは男女の性差はほとんど見られないながら、個人的な見解としては確かに性差は存在し、異性から送られた情報を受け取る超常能力は男性よりも女性の方がはるかに勝るとしている。(p71-72)

これと似たようなことは、アイヌの社会でも見られるという。アイヌの男性の大切な仕事のひとつに、「カムイノミ」(カムイへの祈り)というものがあるが、これはこちらの言葉をカムイモシリ(カムイの世界)に送る送信の役割である。これに対して、女性の役割は専らトゥス(カムイからのメッセージを受信すること)である。

…トゥスというのは本来女性の専売特許でもないらしいのだが、ほとんどの場合は女性のやることとして伝えられている。男性がカムイノミによってカムイモシリへ祈りを送信し、女性がトゥスによってカムイのメッセージや力を受け取るということになるだろうか。そのように機能分担していると考えてもよさそうである。(「アイヌ語をフィールドワークする」中川裕著 大修館書店 p124)

言い換えれば、女性は神の言葉を聞くことができ、男性は神に言葉を発することができる、というわけである。

例えば、先が全く見えない分かれ道があるとしよう。このとき、どちらに行ったらいいのかがわかるのは、女性である。女性はなんとなく、「こちらが正しい道のはずだ」と直感する。けれども、実際にどちらに行くかを決断して、一歩踏み出すことができるのは、男性なのだ。このとき、絶対的に必要になるのは、お互いに対する信頼である。

もしも、男性が女性の感性を信頼せず、「自分もそのように感じられるまで信じない」とか、「なぜこちらの道が正しいのか、納得できる理由を説明するまで俺は動かないぞ」と言ったりすれば、二人は分かれ道で立ち往生してしまうことになる。なぜなら、男性はどうあがいても女性のような感性を発揮することができないし、女性は男性の理性を納得させるような理由付けをすることができないからである。「どうしてって、ただなんとなく、そう感じるだけなのよ!」

言うなれば女性はハンドルであり、男性はエンジン(アクセル)である。ハンドルだけでは決して前に進めないし、アクセルだけではとんでもないところに行ってしまう。男性と女性がお互いを信頼することによって共同作業をしない限り、物事は決してうまく運ばない。これをさらに言い換えれば、「感性」を「理性」が信頼して、「理性」が「感性」の命じるままに決断して行動すればよい、ということである。

ここで思い浮かぶのは、古事記や日本書紀の最初に書かれている伊弉諾尊と伊弉冉尊の出会いの話である。二人が天の柱の周りを 回って出会ったときに、女神の伊弉冉尊が先に「素敵な方ね!」と声をかけて交わると不完全なものが創造されたので、次に柱を逆に回って男神の伊弉諾尊が先に「素敵な乙女だ!」と言ったら、すべてがうまく行ったという話である。

私も自分の経験から、決断するのは男性でなければならない、と感じている。もちろん、その決断は男性の独断ではなく、女性の感性に従ったものでなければならない。けれども、女性が決断したのでは、物事はうまく行かない。「理性」の決断なしに、「感性」が動いても、事は成就しないのである。

私がひとりでは何もできない理由はまさにそこにある。月○は「お前ひとりでもできるだろう」と言いたのかもしれないが、それは全く無理な話だ。月○の決断なしには物事は何一つうまく行かない。私がいくら、「こちらの道が正しいよ!」と叫んでも、月○がそれを信頼して決断しない限り、私は何一つ成就することができないのである。

 

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