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『癒しのことば』

もう一冊本を紹介しよう。『癒しのことば』(ラリー・ドッシー著 森内薫訳 春秋社)。

ラリー・ドッシーはアメリカの医学博士で、この本は、「祈り」というものが病気の治療などにどのような影響を与えうるのかを、さまざまな実験結果をもとに厳密に検証したものである。とても示唆に富んだ記述が数多く含まれている。

まず、人から人への情報伝達において、無意識の果たす役割について(p103)。さまざまな実験において、直接コミュニケーションを取ることが不可能な者同士の間で、情報伝達が可能なことが確かめられた。けれども、それが完全な形で伝わることは少なく、はさみが蝶ネクタイになったり、ライオンが犬に変わったり、というように、似たようなイメージに変形することが多かった。これは、情報伝達の経路(送り手の顕在意識から本人の無意識(潜在意識)へ、そして受け手の無意識(潜在意識)に送られ、さらに受け手本人の顕在意識へ)の中で、潜在意識が顕在意識に反映される際に、歪みが生じてしまうからだという。

このようなことは、私の見る夢でもしばしば起こる。あるとき遠くに住んでいた息子の家の近くの寺で熊が出た、という夢と、まだ子供である息子がビールを飲んでしまった、という夢を見た。気になって電話してみると、確かに近くの山で熊が出て、息子がビールをなめたのだという。

さらに、Jがロシアで働いていたのだが、給料がもらえなくて困っているという夢。夢の中で、「もらえなかったのはいくら?」と聞いてみたら何と「8億」という答えが返ってきた。これも電話して確かめると、確かにある大学で働いたのに給料がもらえなかったということがあったそうだ。ではロシアと8億はどこから来たのだろう? そう思いながら、朝刊を開くと、そこに答えがあった。「ロシアが日本からの借款が返せなくなってしまった。その金額は8億。」どこかで個人のレベルの情報と世界情勢に関する情報が混じり合ってしまったらしい。

私の夢はだいたい、予知夢ではなく、世の中で今起きていることが出てくることが多い。例えば、ペルーの日本大使館人質事件のときも、とても嫌な夢を見て、「何かしてはいけないことをしてしまったようだ」と思っていたら、そのころ強行突入をしてゲリラをすべて射殺してしまっていたし、北朝鮮の高官が亡命するために中国を脱出したときも、何かがやっと抜け出すような夢を見た。

これらのことはすべて次の図で説明できる。

すべての人はこのように一番奥でつながっている。けれども、それは無意識(潜在意識)のレベルである。意識できる顕在意識のレベルは、ちょうど次の図のようなものだから、普通はそのことに気づかない。

すべての人が無意識でつながっているのだとすれば、祈りが他者に影響を及ぼすのは当然のことである。けれども、(1)でも述べたように、一生懸命祈ったからといって、それが通じるわけではない。それについて、この本では次のように書かれている。

 あらかじめ計画されるのではなく、自然に発生する遠隔身体反応の性質は、オルダス・ハクスリーがかつて述べたように、「努力の反比例則」を想起させる。つまり、この種の出来事は努力すれば起こせるわけではなく、かえって努力すればするほど本人の意図に反する方向に向かうものらしい。成功の秘訣は何かをしようと働きかけないこと。自分の知恵で何かをするのではなく世界の英知にすべてをゆだねることーーそうすれば世界はわれわれの前にその力をあらわし、遠く離れた人間に何かを伝えてくれるようなのだ。

非局在性や遠隔身体反応の理論のなかに、祈りに活かせるような教訓はあるのだろうか。「努力の反比例則」は祈りにも当てはまるのだろうか? 何かが「起こりますように」と願うのをやめたそのとき、われわれはもっとも深く他者と結びつくことができるのだろうか? もっとも不熱心に祈ったとき、もっともよく願いが叶えられるのだろうか? あるいはそうかもしれない。そしてこれは「すべてを手放せ、すべてを神に任せよ」と唱える人びとが言わんとしている本質と同じなのではないか。(p118)

「努力」というのはつねに顕在意識のレベルで行われる。つまり、とても浅い意識のレベルで祈っているということである。「神」が上の図のすべてが交差する場所であると考えれば。「すべてを神に任せる」ということはすなわち、自分の無意識のもっとも深い部分にすべてを委ねるということになる。それはすなわち自分自身を信じることである。

否定的な祈りである「呪い」も当然他者に影響を及ぼす、と言ったら、誰しも不安になるであろう。けれども呪いは誰にでもかけられるわけではない。呪いにかかりやすい人については、次のような記述がある。

 外部から致死的な作用が浸入するのを許してしまう、無意識という鎧のウイーク・ポイントは通常、罪悪感である。(中略)何か実際の罪や想像上の罪に対して深い罪悪感を抱いている人間は、彼を罰しよう、もしくは殺そうとして向かってくる魂の攻撃をかわすことができない。無意識の心は己の罪を自覚しているとき、自分は罰を受けてもしかたないという思いのゆえに、外からの攻撃をやすやすと受け入れてしまうのだ。(p217)

だから罪悪感を持つのはよくないことなのです、と言ったら、たちまち多くの学生たちの反発を買ってしまった。「悪いことをしたら当然罪悪感を持つべきです。悪いことをしても、自分は何も悪くないと思っていればいいと言うのですか?」

もちろん、自分が何か悪いことをしでかしたとき、その罪を認めようとせず、他人のせいにしていればいいというわけでは決してない。そんなことをしたら、ますます事態は悪くなる。顕在意識で「自分は悪くない」と言い張れば、かえって罪悪感を無意識の奥深くに押し込めることになるのだから。それがもっとも呪いにかかりやすい状態なのだ。

北朝鮮が度々大洪水などの天災に遭い、ますます食糧危機に陥ったりしたのも、おそらくそれと同じ構図なのではないか。彼らはつねに自分たちの国は素晴らしい、悪いのはみんなお前らだと言い張っていた。けれども、当然無意識のレベルでは、それが嘘であることはわかっている。だから、無意識のなかに押し込められた罪悪感が、自分たちに不幸を引き寄せてしまったのだ。

だから、自分が悪いことをしたら、そのことに真正面から向き合ってそれを認めなければならない。特に重大な過ちほど、認めるのが難しい。過ちを認めることは本当に勇気の要ることなのだ。

でも、過ちを認めることさえできれば、その人は許されていい。次に為すべきことは、自分で自分を許すことである。けれども、これがまた、生易しいことではない。自分を許すことは、もっとも難しいことである。多くの人が、自分を許すよりも、「私は悪い人間です。一生罪を背負って生きます。」と言い続けることを好む。そのほうが謙虚で正しい生き方だと勘違いしているのだ。でもそれではその人はずっと不幸を引きずって生きていくことになり、その人の周りの人も決して幸せになれないのである。本当にはた迷惑な話だ!

かつて私にさまざまな形で暴力をふるった何人かの人がいた。私はただ、彼らの幸せのために捨て身の行動に出たのに、彼らは私の真意を誤解して、自分を傷つけようとしたと思いこみ、恐怖からそのような行動に出たのである。

その後彼らは私の真意を理解したに違いない。そして、自分の行動が間違っていたことに気づいた。ところが今度は、「なんてひどいことをしてしまったんだろう。彼女に合わせる顔がない。」と、私を避けるようになってしまった。罪悪感が彼らを私からますます遠ざけてしまったのである。

私はもう彼らのしたことを何とも思っていない。暴力をふるったときの心情は、十分理解できるから。でも、彼らが自分自身を許さないことには、何も解決しない。誰も幸せになれないのである。これでは私は全く浮かばれない。私は一日も早く彼らとの再会を喜び合いたいのに…

最後に次の一文を引用して、この章を終えよう。

われわれはあまりに長きにわたり、自分たちを個々に分離した人格だと考え続けてきた。ために、統合ではなく分断こそが人間存在の根元的真実なのだと、あたかも自己催眠にかかったように信じ込んできた。だがもしも逆に、分断ではなく統合こそが人間存在の根元にあるなら、心のどこか深いレベルにおいては、何ものもどこかに「到達」などしないのかもしれない。なぜならそこではすべてがひとつにつながっており、分断された個は存在しないーーつまり達するべきものなど存在しないからだ。
 もしもこれが真実なら、祈るとき相手とのあいだに感じる一体感は「なにも特別なものではない」ことになる。そうしたつながりをわざわざ築いたり生み出したりする必要はない。なぜならそれはすでに存在しているのだから。つまり、祈りとは新しい何かを切り開くことではなく、われわれ人間存在の真の姿や人間同士の真のつながりを思い出す行為にほかならないのだ。(p159)

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